御景雑記

雑多に色々書いているだけのブログ。

Long Good-Bye

昨日、「探偵物語」や「あぶない刑事」を生み出したことで知られる株式会社セントラル・アーツ代表取締役の黒澤満さんがお亡くなりになりました。

 

若輩者の私が「あぶない刑事」という作品が「さらば あぶない刑事」という新作映画をもってリアルタイムで新たに動き、真に完結する瞬間を目の当たりにできたこと。

それは間違いなく、このお方のおかげでした。

 

もしも私が前作「まだまだあぶない刑事」をしっかりとリアルタイム記憶し、それで完結と言われていたのならば、間違いなく腑に落ちなかったと思います。

 

その言葉を翻し、あぶない刑事という物語に本当の結末を作るという決断は英断であったといえるし、"10年ぶりにこんにちはで、サラバだぜ。"と現れた「さらばあぶない刑事」の結末は、あぶない刑事という作品の30年にしっかりとピリオドを打つカット(諸々の事情で薫に八つ当たりの如く追いかけられたタカとユージが逃げ走って、ジャンプで止まる)で〆られていたことを、今でも覚えています。

 

公開が決定した当初の映画.comのインタビューで黒澤さんは「2人も元気でまだまだできると革新した。本当の最後を作ってみよう」というコメントを残していました。

 

ピースが欠けないうちに全てをやりきったこと。あぶない刑事という作品は、それを完全に成し遂げられることができた幸せな作品だとおもいます。

 

しかし、そのピースが欠ける瞬間を感じるには少し早過ぎた気がします。

 

私はきっとどこかでふらりと見た映画に、「製作総指揮・黒澤満」の名を見つけておっ、と思える日が来るのではないかと思っていた、多分、そうだと思います…。

 

 

黒澤満さんのご冥福を、心からお祈り致します。

 

 

 

蛇足:何も平成の終わりだからって、誰も彼も鬼籍に入れなくていいだろうに。今年に入って、何度思ったことか。

過去との向き合い方について思うこと

「自分の生まれていない時代に執着めいた興味関心を深めてどうするんだ」と、思うことがある。

確かに過去になるにつれて汚いところが削ぎ落とされて綺麗になるだけという考えは、間違いとは言い切れない。

言い切れない、としたのは、自分がそれに疑問を抱いているからである。

 

しかし「その当時に残された記録」は、誰もが思うよりも生々しく、その時々を刻んでいる。

写真や動画、新聞記事、その時々を体験した人の証言。

言葉が曖昧ならば、前者と照らし合わせて事実と繋げられる。

 

だから私は、"過去は美化される"なんてこれっぽっちも思っていない。

 

その時その時の記録が、全てを語るからだ。

 

少なくとも、今はそうだと信じて疑わない。

無気力と無感情と面倒からの脱却を考える

2018年も折り返しを迎えたこの期に及んで、このブログをまた更新する。

 

毎度毎度の事だが、このブログを久方振りに更新しようと思えば思う程書き出しに悩むし、その時々によって文体が本当に安定していない。今年はもう少し積極的に使いたいと思いつつも毎年1〜2回程度の更新でまた放り投げているものだからなんとも、である。

 

それはさておき、今回もまた御託を書き連ねながら更新していきたいと思う。またかと思う読者諸氏(そもそも読者がいるのか、という点については目を瞑るとする)もいるだろうが、またかと思いながら付き合って頂ければ幸いである。

 

 

そもそもこのブログを更新しなかったのは単純に「面倒臭かった」という一言で片付いてしまうのだが、敢えてもっともらしい理由を述べるならば昨年度から(恐らく)今年度のル・マン24時間の頃まではTwitterに投稿する頻度が高かった為、「ブログに起こす前にTwitterに投稿してしまい、本来言いたかったことを言わずに燃焼させてしまう」という状態が続いていたからだろう。

それ自体はさして問題のないことだ。

しかし、本当にそれだけなのだろうか。もう少し自分に問いかけてみる。

 

 

「踊る阿呆に見る阿呆」という言葉がある。元々この言葉は阿波踊りの歌い出しなんだそうだが、それが転じて『どっちもどっち』という意味も持ち合わせている。阿波踊りの方はそれに「同じ阿呆なら踊らにゃ損々」と続く。

Twitterに限らず、インターネット上には些細なことから始まる論争が日常茶飯事である。昔の自分はそこに多少なりとも自分の見解を真面目に発言するか、またはその論争に対する的外れな意見を面白可笑しく茶化した発言を投げ込んでいた。

しかし今の自分は「単純に面倒臭い」を通り越して「どうでもいい」と思うようになり、それを自分の中の感情で消化することによってTwitterでの発言を不要にしてしまった。

 

 そのような思考を選んだのは、自分という存在が単純に生存する為には何ら問題はない。

寧ろ不毛な論争が起こることが当たり前ななインターネット社会に一々目くじらを立てるぐらいなら、そうした方が正しいとまで思う。

「好きの反対は無関心」と私は考えており、次第に私の思考の内には、無関心の割合がそれこそ無意識下に増えていた。

無関心という言葉は関心が無いと書く。=それは心がないとも読み取れる。─これ自体は私個人の拙い考えだが。 

しかし、それは本当に人間の持つべき思考なのだろうか?あまりにも機械的過ぎやしないか?そんなことを少しは思った。

そもそも当事者にとっては(質はさておき)大きな問題であるものを、ちっぽけな一個人風情が全てを「些細な問題」と一蹴すること自体から思考回路の異常な飛躍を引き起こしているのではないだろうか。

 

しかし私は、このような思考を選ぶということはある一点では大変に優れていると思う。心というものを感情と解釈するならば(これは知人にも言われたことなのだが)、中立的な視点で物事を静観するには最も適した思考である。例えば論文や報道記事、報告書といった文章を書くにはとても有効な考え方だといえる。誰にも肩入れせず、確実な客観視ができる。

 

とはいえ日常生活に於いてもその思考を継続するというのは、如何なものなのか。

そこで改めて自分を見つめ直せば、ある一点では物事を比較的俯瞰的に静観できているというところは確かにある。

しかしその実態は「ただただ面倒事に巻き込まれたくない」という一心で、もっともらしい御託を述べて逃げ回っているようにも見えた(実際問題、今が正にそうなのだが)。

 

このような状態から、どのように関心や感情を取り戻せばいいのかを考えてみる。

 

結論から言ってしまえば「好きの反対は無関心でもあるが、嫌いでもある」という思考を受け入れ、私自身も人間なのだから思ったことを剥き出しにして言ってもよい、という考え方に変えていくことが一つの道なのではないだろうか。

もちろんすぐに実行できるものかと言われればそうではないが、少しずつでも内々にしまいこんでいた感情や思い。それのほんの一部でもいいから外部にさらけ出すという手法で新たな刺激を得るということが重要であるということ。そして「不快」を感じることは人間を人間たらしめる必要な感覚であるということを改めて自分に再認識させる。

その「不快」をどのように消化していくのか。それが自分の選択にかかっていく。皮肉めいたユーモアを交えていくというのがネットには適しているのかなとも思いつつ、一先ず自分の中での結論が出たのでここで筆を置くことにする。

 

長々と書いてきたが、簡単に言えば「感情を嫌悪すれば、それは最早人ではなくなる」ということを身を以て体感したということである。

人間、時には痛み苦しみがなくてはならないのだ。

「アウトレイジ 最終章」感想

観賞日:2017年10月14日


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久方振りの映画感想記事、今回は北野武監督の最新作「アウトレイジ 最終章」です。

実は劇場で北野武監督の映画を見るのはこれが初めてで、2年前に公開された前作「龍三と七人の子分たち」については気にはしていたのですが機会を逃して見れなかったというオチがあります(しかもこの作品が北野武監督だと知ったのはアウトレイジ最終章の情報が解禁されてからの話とか言えない)。

 

そんな中、Twitterで大暴れする公式アカウント様になんと私のアカウントがフォローされてしまうという「事件」が発生し、これは意地でも劇場に足を運び挨拶に行かねばならないと思い立ち、見に行った次第でございます。これを怠ったら指詰めですから…(この辺りは誇張あり)

 

さて、前置きが長くなりましたが肝心の内容については例によってネタバレを抑えながら。

 

実のところ過去2作の「アウトレイジ」「アウトレイジ ビヨンド」が公開された当時は年齢制限に満たなかったというのと、まだ穢れも闇もしらない無垢な学生だったので興味が無くリアルタイムでの鑑賞をしておらず、今回の最終章公開に伴って多少の予習はしたのですがまだ全てをしっかり見ているわけではありません。予習の中でいつもTwitterの方でお世話になっているリク氏(HRC&nismo系ハードボイルド・リク (@HARDBOILED_RIKU) | Twitter)に「今おすすめの北野映画は?」と聞いてみたのですが、その際にその過去2作と「ソナチネ」を薦められました。

 

何故20年以上も前に公開された作品である「ソナチネ」の名前が出てくるの?と思う方もいるかもしれませんが、実はこの「アウトレイジ 最終章」の作中に漂う空気が、次第にこの「ソナチネ」に流れている「渇いた空気」に近づいていくのです。しかし「ソナチネ」にあった「いつかこの沖縄の空の下で、あの何も言わない老け顔のヒットマンの放った弾か流れ弾に当って自分まで死ぬんじゃないか」というまで狂気的なものではなく、「ただ淡々と、目の前で起こっている出来事をカメラの中に収め続けていないと、自分が壊れそうになる」という感覚です。「アウトレイジ」といえば過去2作は惨たらしいまでのバイオレンス描写、「バカヤロー」「コノヤロー」に代表される舌戦という印象が持たれている中で、この作品ではそれらの描写は鳴りを潜めたかに思わせて、突然バッと顔を出す。時折、あの「キタノブルー」を思わせるシーンも点在する。つまりは「そういうこと」なのです。

 

この雑感を簡潔にまとめますと、この作品の醍醐味は英語タイトルの「OUTRAGE CODA」が意味する通り、「終わりに向かって淡々と進んでいく」ことにあると感じています。かつての北野映画にあった芸術性と、現代の北野映画が持つエンターテイメント性が合体した一つの完成形をここに示していると私は見ました。強いて言うならば、この作品は花菱会若頭補佐である中田を演じた塩見三省さんがパンフレットに寄せたコメントである「男のレクイエム」という言葉が一番相応しい言葉だと思いました。