御景雑記

雑多に色々書いているだけのブログ。

無気力と無感情と面倒からの脱却を考える

2018年も折り返しを迎えたこの期に及んで、このブログをまた更新する。

 

毎度毎度の事だが、このブログを久方振りに更新しようと思えば思う程書き出しに悩むし、その時々によって文体が本当に安定していない。今年はもう少し積極的に使いたいと思いつつも毎年1〜2回程度の更新でまた放り投げているものだからなんとも、である。

 

それはさておき、今回もまた御託を書き連ねながら更新していきたいと思う。またかと思う読者諸氏(そもそも読者がいるのか、という点については目を瞑るとする)もいるだろうが、またかと思いながら付き合って頂ければ幸いである。

 

 

そもそもこのブログを更新しなかったのは単純に「面倒臭かった」という一言で片付いてしまうのだが、敢えてもっともらしい理由を述べるならば昨年度から(恐らく)今年度のル・マン24時間の頃まではTwitterに投稿する頻度が高かった為、「ブログに起こす前にTwitterに投稿してしまい、本来言いたかったことを言わずに燃焼させてしまう」という状態が続いていたからだろう。

それ自体はさして問題のないことだ。

しかし、本当にそれだけなのだろうか。もう少し自分に問いかけてみる。

 

 

「踊る阿呆に見る阿呆」という言葉がある。元々この言葉は阿波踊りの歌い出しなんだそうだが、それが転じて『どっちもどっち』という意味も持ち合わせている。阿波踊りの方はそれに「同じ阿呆なら踊らにゃ損々」と続く。

Twitterに限らず、インターネット上には些細なことから始まる論争が日常茶飯事である。昔の自分はそこに多少なりとも自分の見解を真面目に発言するか、またはその論争に対する的外れな意見を面白可笑しく茶化した発言を投げ込んでいた。

しかし今の自分は「単純に面倒臭い」を通り越して「どうでもいい」と思うようになり、それを自分の中の感情で消化することによってTwitterでの発言を不要にしてしまった。

 

 そのような思考を選んだのは、自分という存在が単純に生存する為には何ら問題はない。

寧ろ不毛な論争が起こることが当たり前ななインターネット社会に一々目くじらを立てるぐらいなら、そうした方が正しいとまで思う。

「好きの反対は無関心」と私は考えており、次第に私の思考の内には、無関心の割合がそれこそ無意識下に増えていた。

無関心という言葉は関心が無いと書く。=それは心がないとも読み取れる。─これ自体は私個人の拙い考えだが。 

しかし、それは本当に人間の持つべき思考なのだろうか?あまりにも機械的過ぎやしないか?そんなことを少しは思った。

そもそも当事者にとっては(質はさておき)大きな問題であるものを、ちっぽけな一個人風情が全てを「些細な問題」と一蹴すること自体から思考回路の異常な飛躍を引き起こしているのではないだろうか。

 

しかし私は、このような思考を選ぶということはある一点では大変に優れていると思う。心というものを感情と解釈するならば(これは知人にも言われたことなのだが)、中立的な視点で物事を静観するには最も適した思考である。例えば論文や報道記事、報告書といった文章を書くにはとても有効な考え方だといえる。誰にも肩入れせず、確実な客観視ができる。

 

とはいえ日常生活に於いてもその思考を継続するというのは、如何なものなのか。

そこで改めて自分を見つめ直せば、ある一点では物事を比較的俯瞰的に静観できているというところは確かにある。

しかしその実態は「ただただ面倒事に巻き込まれたくない」という一心で、もっともらしい御託を述べて逃げ回っているようにも見えた(実際問題、今が正にそうなのだが)。

 

このような状態から、どのように関心や感情を取り戻せばいいのかを考えてみる。

 

結論から言ってしまえば「好きの反対は無関心でもあるが、嫌いでもある」という思考を受け入れ、私自身も人間なのだから思ったことを剥き出しにして言ってもよい、という考え方に変えていくことが一つの道なのではないだろうか。

もちろんすぐに実行できるものかと言われればそうではないが、少しずつでも内々にしまいこんでいた感情や思い。それのほんの一部でもいいから外部にさらけ出すという手法で新たな刺激を得るということが重要であるということ。そして「不快」を感じることは人間を人間たらしめる必要な感覚であるということを改めて自分に再認識させる。

その「不快」をどのように消化していくのか。それが自分の選択にかかっていく。皮肉めいたユーモアを交えていくというのがネットには適しているのかなとも思いつつ、一先ず自分の中での結論が出たのでここで筆を置くことにする。

 

長々と書いてきたが、簡単に言えば「感情を嫌悪すれば、それは最早人ではなくなる」ということを身を以て体感したということである。

人間、時には痛み苦しみがなくてはならないのだ。